東京コンフィデンシャル

ライター岩戸佐智夫の日記と記録です。 過去に書いた記事、旅の日、大好きな食のことなどを綴っていきます。

Friday, March 03, 2006

サハラの空の下で

昔書いた、パリ・ダカールラリーの一コマ。
そのまんまアップします。

 僕はテントを張り終えると、寝袋を広げふてくされて寝転がった。
 91年の冬のことだった。
 アフリカの空を見上げながら心の中で、「おいおい」と呟く。なにしろ取材対象のチームがアフリカに上陸した翌日そうそう、リタイアしてしまったのだから、僕がそう呟くのも無理はないことだった。
 場所はニジェールの首都アガデスの市立公園。市内で唯一、テントがはれる場所である。昨日は他のチームの宿舎にお世話になったのだが、トイレのひどさがほとほと嫌になり、公園へと逃げ出したのだ。旧フランス式のトイレと呼ぶらしいのだが、ホントにひどいしろものだった。シャワールームとトイレが一緒なのはよいが、用を済ませチェーンを引いて水を流すと、壁の一番下にある吹き出し口から水が地面と水平に、後ろにあるシャワーの方に向かって吹き出すのである。通常、我々が考える水洗トイレはレバーを操作すると下に向かって水が適当な速度で流れ出し、体から出た物体はその水の流れと重力に従って、下にある管の中へと流れ込むわけだ。だがこのトイレは水平に水が噴き出すのである。しかもジェット水流のような勢いだ。当然、壁から吹き出す津波によって、体内から出た物体はシャワーの方に向かって押し流されることになるわけである。それだけじゃない、他人が残した物体までが逆流し始めるのだ。食べる物が違うからだろうが、様々な物体の匂いが混じり合って、とんでもないことになる。
 二回目で僕はノイローゼになりそうになった。これならよっぽど野糞の方がましだと思った。そして荷物を抱えて市内で唯一野宿がゆるされる市立公園へと逃げ出したというわけだ。
 便所の話は良い……。
 アガデスは、サハラ砂漠を東西と南北に走る2本の交易路がクロスする場所として、昔から栄えていた街である。この街でパリ・ダカール・ラリーの一行はラリー中唯一の休息をとるのことになるのだ。
 キャンプ場で数日を過ごすうちに親しくなったのがトアレグ族の人達だった。チーム静岡の監督小松勇次が、腹痛を起こしていた一人のトアレグ族に、正露丸を渡したのがきっかけだった。小松は静岡トヨタの宣伝部員だが(現在はフリーでプランナー・イベンターをやっている)、パリ・ダカに憧れ自らチームを率いてやって来たのだが彼のチームも早々にリタイヤした。リタイヤした車は陸路をパリに向かったが、彼は飛行機でパリに帰るわけにもいかず、その後もラリー隊と行動をともにしていたのである。
 この時小松が渡した正露丸がよほど効いたらしく、彼らは我々のテントの当たりに集まるようになったのだ。彼らにターバンの巻き方を習い、トアレグの話を聞く。もともとトアレグは遊牧民族だが、政府の定住政策で遊牧を放棄した連中もいる。僕たちが親しくなったトアレグもそんな連中だった。彼らは私たちのテントの回りに座り込み甘いミントティーを飲みながら一日を過ごすのだ。私たちもお茶を御馳走になる。お茶を交わすのは友情の印らしい。中でもオマルと言う男と私たちは特に親しくなった。彼の家に招かれ、ディスコにも一緒にいった。ディスコといっても運動場のダンス会のようなものだが……。別れの日、オマルは自分の車で私たちを空港に送ってくれた。
 オマルが言う。
「帰ったら手紙をくれるかい?」
 小松が答える。
「もちろんさ」
「オマルは信じてるよ」
 オマルが銀の鎖を小松に渡して言った。
「俺はなにもあげる物がなにも無い。これはずっと自分が付けていたものだけど、受け取ってくれ」
 そして私たちの飛行機は次の目的地へと飛び立った。
 アガデスを出てから2日後だったと思うが、マリ共和国のトンブクトゥーという街でのことである。普段、あまりラリーの基地から出ない。だが、この街は黄金伝説のあるほどに古い都だった。興味を引かれた私はタクシーをチャーターして街へ向かってみた。
 いけどもいけども砂まじりの荒れ地である。
ふいに土造りの建物が密集する街が現れた。荒野の中の土の廃墟の街それがトンブクトゥーだった。あまりにも荒涼とした風景だった。
 タクシーを一番大きなホテルの前で止め、これから行く方向を決めかねていると、赤い帽子を被った小学5年生くらいの少年が話しかけてきた。
「僕はアスー、日本語でアスって明日って意味だろ。ねえ僕にガイドを頼まないかい」
 前にガイドをした日本人からの紹介状をもっていた。紹介状には『おしゃべりで生意気な少年ですがいい子です』と書いてある。
「僕はとってもクレバーだぜ」
 確かに生意気だった。だが私はアスーにガイドを頼むことにした。ガイドといってもただ道を教えてくれるだけのようなものだが、アスーとの会話はなかなか楽しい。
 歩いている私に道端の女が声を掛けてくる。
「何て言ってるんだい?」
「愛してるってさ……。みんな日本人と結婚したがってるんだよ……」
 アスーの黒い顔が少し赤くなったように見えた。生意気だが愛すべき奴なのだ。
「ここいらの人は僕たちの顔を見ると、みんな一斉にカドーと言うけれど、あれをどう思う?」
 カドーとはフランス語で贈り物の意味だ。それが転じて物乞いのの言葉になっている。パリ・ダカの行程で私たちは原住民のカドーに悩まされていた。
 アスーが肩をすくめて言う。
「みんな嫌だって言うね」
「で、アスー君はどう思うんだい」
「うーん。アメリカ人がやたらに物をくれるからね。それに僕たちの国はまだいろいろと問題が多いんだよ」
 確かに小学生にしては、クレバーな答えである。
 翌日の朝私がテントから顔を出すとキャンプ地の中に赤い帽子が見えた。アスーだった。
名前を呼ぶと手を上げて答える。キャンプ地に捨てられた不要な物からまだ使える物を拾いに来たのだと言う。
「小さい弟たちに使えるものは無いかと思ってね」
 私はラリーで配られるランチ用のパックを2人前もらいアスーに渡す。
 私がテントをたたみ取材陣移動用の飛行機に向かおうとすると、アスーが重いダッフルをかついで飛行機のそばまで運んでくれた。この土地では荷物に少しでも手を触れられるとチップを渡さねばならない。
 私はちょっと躊躇ったが、ポケットの中から一番きれいな10フラン硬貨を選び、黙ってアスーに渡した。アフリカではフランの紙幣
は通用するのだが、何故か硬貨は通用しない。
 アスーは全くの好意で私の荷物を運んでくれた、私はそう感じていた。だから私は10フラン硬貨をお金ではない何かとして彼に渡したかったのだ。
アスーはうなずいてニコリと微笑んだ。

1 Comments:

Anonymous Anonymous said...

岩戸様、15年前パリダカでご一緒になりました、静岡の小松です。お元気ですか?
15年ぶりに「リベンジ・サハラ」を計画中です。懐かしい「東京コンフィデンシャル」拝見しました。宜しければご返信下さいませ
y-komatsu@adbig.jp

5:50 PM  

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