東京コンフィデンシャル

ライター岩戸佐智夫の日記と記録です。 過去に書いた記事、旅の日、大好きな食のことなどを綴っていきます。

Monday, March 13, 2006

カリブの旅1 始まり シカゴ~サンファン(プエルトリコ)

  カリブの島々を巡る船の旅に出かけたのは2001年9月末のことだった。そう9.11の直後のことである。
 シカゴで一泊のトランジットを行った。その夏まで住んでいたシカゴは、9.11後のシカゴは星条旗一色に染まっていて不気味だった。
 僕はそんなシカゴを経由して、プエルトリコへと向かった。

  シカゴ・オヘア空港のドメスティックロビーからプエルトリコ行きの飛行機に乗り込み、6時間(時差があるので実質は5時間)、やっとプエルトリコの空港に 着いた。むわっとした空気が僕を包む。Tシャツの上にアロハという軽装だが、それでも暑い。汗が噴き出て、アロハを脱ぎ去りたくなる。
 僕はパッ クツアーの参加者ではないから、空港からタクシーを拾いホテルで一泊した後、単独で船に向かわねばならない。まず空港のロビーを出たところで戸惑った。独 特のシステムがあるらしく、どうにも上手くタクシーを掴まえられないのだ。タクシー待ちの列はあるのだが、僕の番が来ても無視されてしまう。久しぶりの一 人旅だったので戸惑い、焦りがつのった。まず相手に僕の英語が通じているのか、いないのかがわからない。プエルトリコはアメリカの一部といってもスペイン 語の地域だ。ひどい訛で相手の言っていることがまったくわからない。
 一通り人々の動きを観察し、アメリカ人旅行者を掴まえて訊ね、やっとどういうシステムなのか理解できた。まず係員に行き先を言い、予約のレシートを出して貰わねばならないのだ。理解できれば簡単な話だが、この島ではすべてがこんなシステムなのかと思うとうんざりもする。
  しかしやっかいなのはそこまでで、一旦、空港を離れてしまえばあとは日本と同じだった。流しのタクシーを拾うシステムである。違うのはメーターはついてい るが、とりあえずの料金が決まっているところだ。ダウンタウンまで空港から片道、15ドルと決められていた。チャーターして観光するなら、1時間、30ド ルにフィックスされている。空港のタクシー整理係より運転手の方がよほど英語が解るのには笑ってしまった。観光客にそれだけ接しているせいだろう。
  とにもかくにもスペイン語訛の会話をなんとかすり抜け、ホテルまでタクシーに乗り込む、そしてチェックインを済ませたホテルの部屋に取りあえず盗まれても 差し障りのない荷物だけを残し、観光タクシーをチャーターして旧市街に出ることにした。運転手はウイリアムスという男だった。気のいい男で、僕が金がない と言うと3時間1ドル50セントという規定だが2時間で1ドルで良いと言ってくれた。
 最初に連れて行かれたのはエル・モロ要塞という所。この町 は1521年に建設されたのだというが、以来イギリス、ポルトガル、フランスに狙われ続けてきた。それらをうち払うために造られたのがこの要塞だ。要塞か ら街の中心地へと続く石畳がとても美しい。運転手のウイリアムが車を停めた。ここからは徒歩で案内してくれると言う。なだらかな坂に原色を配した土壁の建 物。オールドサンファンにいると、まるで南欧にやってきたような気分になった。
「あそこがマイヤーズの工場さ」
 僕は『パイナップルの生い茂る峠』という名を持つカクテル・ピナコラーダを屋台で買いゴクリと飲んだ。甘く爽やかな冷たさととラムの刺激が喉を降りていく。
 だが僕がここで思い出していたのは実は沖縄のことだった。街並みや人々はまるで違う。街はこちらの方が遙かに美しく、エキゾチズムを誘う。しかし『積み重なり堆積された時』のあり方のようなものが沖縄ととても似ていると僕は感じた。
  ウイリアムスの案内でラス・アメリカ博物館を訪れた。広い中庭のある巨大な建物だが、アメリカ全体のアートミュージアムだが、やはりラテンアメリカの生活 文物が多く飾られている。コロンブスがこの島にたどり着いた時、およそ三万人の先住民がいたのだという。ウイリアムは一見、まったくの白人だが、多分スペ イン人と先住民の混血であるらしい。
 先ほど、沖縄と何かが似ていると書いた。もちろん沖縄何かよりこちらの方がはるかに複雑な歴史を持っている。でもここはカリブの沖縄なのだと僕は思う。大国の間で戸惑い、諦めという意識の中で暮らす島……。


  カーニバルディスティニー 約10万トン

                オールド・サンファンのはずれからカリブ海を臨む


                           ウイリアム
              
 翌日の午後、僕は港に着き、これから乗り込むことになる『カーニバルデスティニー号』を見て唖然とする。それがあまりに巨大な船だったからだ。
 船に乗る前は、一体戦争が起きそうな時期に乗船する人間が何人いるのだろうか、もしかしたら航海は中止になるのではないかと思っていたのだが、出航が近づくにつれて、三階にあるメインロビーは人で一杯になって行く。潰れた船会社もあったというが、アメリカ全体でこの時期のクルーズシップの乗船率は92%だったそうだ。アメリカ本土でテレビを見ていると星条旗ばかりが映し出され、戦争ムードが高まっていたのにもかかわらず、これだ。アメリカ人の考え方はわからない。とはいうもののこんな時期にクルージングの取材にはるばる日本からやって来た僕も僕なのだが……。
 インフォメイションセンターで、「この旅は一週間だよね。その間に戦争が始まったら、どうなるんだい」と訊ねてみる。
 黒人の係員が面倒くさそうに答える。
「これは船の旅だ。世間のことなんて知ったことじゃないね。頭を切り換えた方がいいぜ」
 その通り……である。これから一週間、海の上、外で何があってもいたしかたないと覚悟を決めてパスポートを預ける。
 巨大な船内を迷いながら、与えられたカードキーで船室に入った。ベッドが2つ、ソファー、シャーワールーム。窓の外には海。悪くない部屋だ。
 巨大な船内、上質な部屋。上質なルームサービス。まったくの動くホテルである。
 午後8時から、最初のディナーが始まる。フォーマルなカクテルパーティーやディナーの日があるので、てっきりクルージング・ツアーなんてブルジョアのお遊びなのだと思っていたのだが、とんでもない。手づかみでチキンを食べる人がいたりで、まったくマナーなんてどこにいったものやらだ。
 もっともダイニングルームは幾つかあったし、等級によって客層も違うのかもしれないが、でも次の日からディナーを取った、上級のダイニングルームでも、マナーはあまり誉められたものではなかった。後で知ったのだが、やたらに大きな船は大衆船が多いと言うことだった。
 とにもかくにもとまどいばかり、生まれて初めてのクルーズ最初の夜だった(カリブの後、僕は沢山の船の旅を経験することになる)。
 穏やかな海の音を聞きながら僕は眠りについた。



 

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