東京コンフィデンシャル

ライター岩戸佐智夫の日記と記録です。 過去に書いた記事、旅の日、大好きな食のことなどを綴っていきます。

Friday, March 24, 2006

カリブの旅6 アルバ


28日(金曜日)。
 オランダ領アルバに着く。南米に近い島だ。午前8時半にプレスツアーが出発と随分朝が早い。バスの窓の外には、サボテンの荒野が広がっていた。
 ツアーガイドが、「アリゾナかネバダみたいでしょう?」と笑って言う。
 あまりに乾いた風景に二百年前にやったきたというオランダ人はいったい、何がうれしくてこの島を占拠し続けたのだろうとすら考える。
 前のグアドロープとは確かに風景が全く違う。どうやら珊瑚礁隆起の島らしく、白っぽい土と石灰岩が見える。



 それにしても家々は案外と綺麗だ。貧しさがあまり感じられない。
確かに豊ではない部分も見えるのだが人々の視線は、貧しい島々に時々あるような刺すようなものではない。
 島は唯一の娯楽らしい、選挙で賑わっていた。



 子ども達も素直だ。カメラを向けるとニッコリと笑い、照れながらいろんな格好をするなど、まったく子供らしい反応を見せてくれる。
 ガイドに、「この島の人々は豊ではないけれど、それほど貧しい感じもしない。デザートだらけのこの島に産業があるとも思えないけれど、一体何で生計を立ててるんだい」とたずねてみると、
「ツアーだよ。ここの資源は観光なんだ」、と答えた。
 島にはBARASHIと言う名の地ビールもあった。



 途中でお昼に立ち寄ったボートハウス風のレストランで美味しいクレオール料理とともに味わった。
「この場所の水はとてもいいんだよ」
 醸造所がある辺りを指してガイドが言う。簡単な話だった。オランダがこの島を占拠し続けた理由は水だったのだ。
 ダイビングショップのインストラクターが近づいてきて僕に言う。
「うちのショップは沖縄にもあるんだけど、日本人はここまで来てくれないね。アルバは良い島なのにさ。
日本に帰ったらアルバまで来るように行ってくれないか? ライターなんだろ」
 僕は笑って答える。
「OK。もの凄く良い島だと書いておくよ」



 青い海で水遊びをすれば巨大な熱帯魚が近づいてくる。僕は近所の子供達と戯れる。



 後に港に帰って島の豊かさの理由がわかった。港の前にはカジノと土産物屋がずらりとならんでいた。どうやらヨーロッパやアメリカからかなりの観光客が入ってきているらしい。



 そしてクルージング最後の日。
 船はプエルトリコのサンファンを目指して進み、再び1日中海の上だ。僕はデッキチェアーに横になり、本を読み、海を眺める。明日は、動かない大地を踏み、空を飛び再びシカゴを経て、日常が待っている日本へと帰らねばならない。



 目の前の海をどこからどこへいくのかトビウオを群れが、まるで小さな鳥が移動するように飛んでいった。

(『カリブの旅』1~6は『船の旅』誌掲載の『海流の中の島々』に加筆をおこなったものです)

Thursday, March 23, 2006

カリブの旅5 そして船は行く


 27日(木曜)。
 今日は一日中海の上だ。
  グアドロープの南側にはドミニカ共和国があり、そのさらに南にはマルティニークがある。マルティニークはナポレオンの后ジョセフィーヌの故郷であり、ラフ カディオ・ハーンが2年間滞在し、愛した島でもある。旅に出る前、行きつけのバーのマスターからマルティニークの音楽を教えて貰っていた。人生の孤独と悲 しみ、そして生きる喜びが素朴に奏でられるメロディーに僕は魂を奪われた。そのマルティニークを訪ねてみたかったのだが、残念ながら今回の航路には含まれ ていない。
 船は西南西に舳先を向けている。
 デッキチェアーに横になり、ブルーブラックのインクブルーから、黒色に変わっていく海を眺め、肌に風を感じながら、絵はがきに筆を走らせる。
 船の旅も悪くないと思い始めていた。
 まったく悪くない。
 最初は単なるプチブルのお遊びだと思っていたし、一日海の上なんてどこが楽しいんだと思っていたのだが……。
 知り合ったインディアナから来たカップルや、テネシーからやってきた老夫婦、そしてお向かいさんである、メアリーと
「今日はどこへ行ったの」とか、「今日はどうするの?」とか他愛のない会話を交わす。
  この船は巨大なホテルだと書いたが、それ自体が動く小さな村か、街自体が動く旅だと思う。
 私たちはそこの一時的な住人だ。二度と会わないだろう隣人たち。例 えば酒場で、隣り合った人と会話を交わすようなものだ。親密だが、再び訪れることのない関係……。
 ただ移動するだけの街が、島々とすれ違う。
 それも悪くない。






 船に乗って最初に知り合ったのは前出のオハイオから来ているメアリーだった。
船に乗り込む時に預けた荷物は、後に部屋に届けられるのだが、これに案外と時間がかかる。
僕の場合はカメラの三脚がなかなか届かなかった。暗い船内の撮影に必要だったから、フロントに尋ねに行こうとして部屋を出たら、廊下にうずくまっている女性がいた。それがメアリーだった。
その夜、ディナーに着ていく服が荷物の中に入っていて、ほとほと困り果てていたのである。
「大丈夫だと思うよ。僕もまだ荷物が来てないんだ。フロントで訊ねてくるから元気を出して」
「ありがとう……」
そんなたわいのない会話が交わされた。
 ロビーにあるカウンターバーでインドネシアから来たバーテンダーとたわいのない言葉を交わす。
 外国で、そしてたった一人の日本人として、ほとんど言葉の通じない船の中にいる、というのも悪くない。日本からの隔絶感がより一層強くなる。ただ一人の旅人になるというのは気持ちがとても良いことだ。
 初日僕に「世間のことなんか知ったことじゃない。忘れてしまえよ」と言った黒人係員の言葉は全く正しい。陸の上のことなんか知ったことじゃない……。
 普段はほとんど着ないスーツを着用しネクタイを締め、ちょっと気取ってディナーに臨む(カーニバルディスティニーはカジュアルクルーズだが、ディナーの時だけドレスコードがある)。






 こちらから連絡を取りたくても、あちらから連絡を取りたくても、どうしようもない。連絡を取ろうと思えば、こちらから一方的に手紙を出すしかない。
 夜中まで繰り広げられるイベント、夜中まで開いているバー。どこかに感じられるバイブレーションが都会人の私を安心させる。


 船は南米、ベネズエラとコロンビアの国境近くの海上に浮かぶアルバを目指して走っていった。

Monday, March 13, 2006

カリブの旅4 グアドロープ


 26日(水曜日)。
 午前7時頃目が覚める。窓の外に、島が見えた。フランス領、グアドロープだ。
 波止場越しにビルが沢山見えた。どうやらかなり大きな島のようだ。これまでの島とは様子が少し違っている。船窓から見えるのは都市……、といってもよさそうな風景だった。
 大きな煙突から煙りが立ち上っていた。



 フランス領だけあって、港に停まっている車にはプジョーなどフランス車が多い。
 実はこの日、撮った写真は他の島に比べて少ない。街の姿も船の上から撮ったものばかりだ。
 街や島がつまらなかったからではない。なにしろ僕は街が大好きなのだ。
 そして島の風景も悪いものではなかった。
 写真が少ないのは、この日、プレスのツアーがあったからだ。
 ほとんどの場所をバスで駆け抜けてしまったのである。
 街中も走り抜けた。でもダウンタウン自体はさほど特筆すべき所は感じられない。
 だが、カントリーサイドに抜けると風景は一変する。1階や2階にテラスのあるゆったりとした一戸建ての家……、アメリカの田舎町にもこういう風景はあるが雰囲気が違う。あきらかにヨーロッパの香りが漂っていた。実情は知らないが、豊かさの匂いがする。



 バスの車窓にはフランスに送るのだという広大なバナナ畑とサトウキビ畑が広がる。船から見た大きな煙突から立ち上る煙はサトウキビ工場で砂糖を作っている煙だったのだ。
 バスを停めて広大な農園の写真を撮りたかったが、僕の我が儘を聞いてはくれない。多分彼らには珍しくもないのだろう、ここでも停まってくれない……。
 そして連れて行かれたナショナルパークはまるでボルネオのジャングルを思い出させてくれた。
 豊かな熱帯性雨林の光景である。ここはやはり豊かな島なのだ。




 ランチにガイドが連れて行ってくれたレストランは公園の中にあるフレンチ・クレオールの店。ここがなかなか良かった。まずチリを仕込んだ種の無い揚げ物がア ントレとして出た。そして貝殻型の容器に詰めたやはりピリッと辛いツナのグラタン。洗練とは無縁だが、なかなかに美味い。メインは鳥をココナッツで煮たものをライスにかけて 食べる料理。これもいける。日本人の口にとてもあっている。
 鳥がやってきて、テラスの手すりにとまった。パンのカケラをやるとだんだん近づいてくる。まるで用心なしだ。
 回りの外国人が鳥と戯れている僕を見て、
「ほらね、日本人はああやって自然のものと親しむんだよ。噂通りだね」
 とか話をしている。日本人は? そうかな~。だって楽しいじゃないか。
 ふと見るとハチドリが飛んでいるのに気が付いた。生まれて初めて見るハチドリだった。
 僕はレンズを望遠に替えて、用心深く狙いシャッターを押した。
 現像したフィルムには残念ながらハチドリは写っていなかった。
 僕のカメラはレンジファインダーで一眼レフではない。レンジファインダーの望遠で小さな対象物を捉えるのは難しいのだ。




 食事が終わり、最後はビーチ。イスラエルから来た者も、カナダから来た者も、イタリアから来た者も、オーストラリアから来た者も、メキシコから来た者も、そして日本からやってきた者も仕事を忘れて波と戯れる。
 

 無邪気で親密な時間がゆったりと流れて行った。

カリブの旅3 アンティグワ・バブーダ

 25日(火曜日)、朝8時アンティグワに到着。アンティグワ・バブーダは2つの島で構成された国で、船が着くのはアンティグワ島の方である。
 これまでの島よりも山が低い。船から島を眺めているとニジェールの風景を思い出した。アフリカに雰囲気が似ているのだ。




 船から下りると、街は船着き場から始まっていた。観光客相手の土産物街だ。
「タクシーで観光しないか。3時間、島の南まで行って米ドルで15ドルだ」
 プエルトリコの6分の1の物価だ。もっともこちらは相乗りである。
 ここではさしたる時間も無かったので、港の回りを歩いて過ごすことにする。
 暑い、とにかく暑い。毛穴という毛穴から汗がエネルギーを連れて流れ出してくるようだ。
 この島は9月から雨期だという。確かに雲は多いが、取りあえず雨は降りそうにない。
 まるて゜蒸し風呂である。



 パブリックマーケットまで歩いてみることにした。ブラブラ歩くとすぐに土産物街を通り過ぎる。土産物街を過ぎると風景は一変した。
 船の上で感じたとおり、アフリカの雰囲気がとても濃い島だ。あまり安全な気は しない。別にアフリカが危険だというわけではないが、よそものが我が物顔で歩いてはいけない地域という意味だ。
 何故かいつも誰かから見つめられているように感じる。他の島がどこかの領土なのに比べ、ここは独立した島だ。それだけ自意識が強いのだろうし、宗主国か らの援助が無い分貧しくもあるのだろう(アンティグワ・バブーダをネットで検索してみたが、ネットカジノで有名な国だという)。
 僕の前を若い女性が歩いていた。彼女も同じ方角に行くようだった。等間隔で市場の方まで歩くことになった。心の中で、『なんだかつけているようで嫌だな』と思っていた。
 そんな時、彼女が突然、振り返って言った。
「ミスター。何か落としたよ」
 戸惑いながら振り返るとジーンズのお尻のポケットに入れていた地図が路上に落ちていた。
 彼女の背中に目があるわけでもないし、超能力者でもないと思うから、前にいる誰かが合図をしたのだろうと思う。やはり僕は見られていたのだった。
 7分ほどで、市場に着いた。
 建物は立派だが、市場自体はさほど大きくない。もっとも暑い南の島の市場は昼からが盛況だから、この時間はヒマなのかもしれない。



 それにしても暑い。汗が噴き出してくる。
 あまりの暑さに、船着き場の近くのカフェでビールを飲んだ。
 

 ラベルを見るとWADADLIと記されている。よく読むとアンティグワの地ビールだった。一 本、米ドルで1ドル50セント。安い。氷の中に漬け込んでいるようで、かき氷の固まりがこびりついている。その冷たさが心地よかった。もう一本、もう一本と本数を重ねた。少しアルコール度数が高いのか、それとも暑さのせいなのか酔いの回りが早 いように感じる。



 辺りにはティンドラムの涼やかな音が満ちていた。路上ではティンドラムを演奏し、マラカスが音を立てている。港にはラスタカラーのミュージシャンが集ってい たのだ。船の着岸は一つのイベントなのである。
 やがて乗船時間がやってきた。
 船に帰るとばったりとお向かいの部屋のメアリーと出会った。
 メアリーはオハイオから一人でクルーズの旅をしている中年女性だ。
 クルーズにはよくやってくるのだと語っていた。
「どうしてた?」、と僕が訊ねると、
「島の反対側で泳いでたよ。ここは島の反対側が良いところなのよ」と答える。
 なるほど、島々によって見所が違うのだ。
 その選択も良かったのかなとも思ったが、でも久しぶりに味わう異邦人としてのアフリカ感覚も、緊張感に溢れて良いものだった。

カリブの旅2  セント・トーマス島



ドシンという音と振動で目が覚める。目覚まし時計は午前6時を指していた。音と振動は最初の島、セント・トーマスに着岸した音だった。
 僕は3ドルの乗り合いタクシーに乗ってダウンタウンに出かける。南欧風の造りの街だが、スペイン領だったサンファンとはあきらかに雰囲気が違う。かなり奥まで歩いて入ってみたが貧しい感じはあまりしない。



 僕は一日中、写真を撮って過ごした。
 半分クローズドした小さな市場……、そしてローレックスを始めとして高級ブティックが並ぶメインストリート。みんなレイジーで明るかった。僕もきりりと冷えたピナコラーダを飲み、レイジーに過ごす。



 最後に裏町で少年の写真を撮った。とても可愛い少年だった。歩いている僕の前に突然小さなカフェから飛び出してきて、「ハーイ」と手を振ってきたのだ。 カメラを構えるとニコリと笑う。「オーケー、キュート・ボーイ」と言いながら写真を数枚撮り、少年と手を振って別れ、船に帰るつもりで歩き出す。
 僕の背中に、「ヘイ!!」、と女性の声が飛んできた。アメリカ本土なら無視するところだが、ここは本土ではない。私は振り返える。
 初老の黒人女性が立っていた。
「何故あんたは街の写真を撮って回っているんだい?」、と尋ねる。
 どうやら写真をあちこちで撮っている東洋人の噂が広まっているらしかった。
 僕は慎重に考えながら答える。
「ここは日本から遠いからね。多分、僕はここに二度と来られない」
 僕はカメラを指して言った。
「これは僕の記憶なんだよ」
 女性は頷いて言った。
「日本は遠い。とても遠い」
 僕の言葉に、彼女は納得したらしかった。そして尋ねた。
「この島は好きかい?」
 僕は答える。
「良いところみたいだね。で、あなたはここが好きかい?」
 と訊き返した言葉に女性は答えた。
「そりゃそうだよ。グアドロープ(翌々日に訊ねるフランス領の島である)からやってきてもう30年も住んでいるんだからね」 
 彼女は僕にさよならと手を振って、通りかかった駐車場に入っていった。




 後ろ姿を見送り、港まではかなりの距離があったけれど、歩けるところまでぶらりと歩くことにする。
 途中、小さなシナゴーグ(ユダヤ教の教会)があった。
 カメラを片手に中を覗く。質素だけれど、清楚なたたずまいをしたシナゴーグだった。
 シナゴーグの床一面に、祖国を失って世界に散っていったユダヤ人たちを象徴する砂が撒かれている。僕はそっとシャッターを押した。
 船の旅は人を内省的にするようだ。
 

カリブの旅1 始まり シカゴ~サンファン(プエルトリコ)

  カリブの島々を巡る船の旅に出かけたのは2001年9月末のことだった。そう9.11の直後のことである。
 シカゴで一泊のトランジットを行った。その夏まで住んでいたシカゴは、9.11後のシカゴは星条旗一色に染まっていて不気味だった。
 僕はそんなシカゴを経由して、プエルトリコへと向かった。

  シカゴ・オヘア空港のドメスティックロビーからプエルトリコ行きの飛行機に乗り込み、6時間(時差があるので実質は5時間)、やっとプエルトリコの空港に 着いた。むわっとした空気が僕を包む。Tシャツの上にアロハという軽装だが、それでも暑い。汗が噴き出て、アロハを脱ぎ去りたくなる。
 僕はパッ クツアーの参加者ではないから、空港からタクシーを拾いホテルで一泊した後、単独で船に向かわねばならない。まず空港のロビーを出たところで戸惑った。独 特のシステムがあるらしく、どうにも上手くタクシーを掴まえられないのだ。タクシー待ちの列はあるのだが、僕の番が来ても無視されてしまう。久しぶりの一 人旅だったので戸惑い、焦りがつのった。まず相手に僕の英語が通じているのか、いないのかがわからない。プエルトリコはアメリカの一部といってもスペイン 語の地域だ。ひどい訛で相手の言っていることがまったくわからない。
 一通り人々の動きを観察し、アメリカ人旅行者を掴まえて訊ね、やっとどういうシステムなのか理解できた。まず係員に行き先を言い、予約のレシートを出して貰わねばならないのだ。理解できれば簡単な話だが、この島ではすべてがこんなシステムなのかと思うとうんざりもする。
  しかしやっかいなのはそこまでで、一旦、空港を離れてしまえばあとは日本と同じだった。流しのタクシーを拾うシステムである。違うのはメーターはついてい るが、とりあえずの料金が決まっているところだ。ダウンタウンまで空港から片道、15ドルと決められていた。チャーターして観光するなら、1時間、30ド ルにフィックスされている。空港のタクシー整理係より運転手の方がよほど英語が解るのには笑ってしまった。観光客にそれだけ接しているせいだろう。
  とにもかくにもスペイン語訛の会話をなんとかすり抜け、ホテルまでタクシーに乗り込む、そしてチェックインを済ませたホテルの部屋に取りあえず盗まれても 差し障りのない荷物だけを残し、観光タクシーをチャーターして旧市街に出ることにした。運転手はウイリアムスという男だった。気のいい男で、僕が金がない と言うと3時間1ドル50セントという規定だが2時間で1ドルで良いと言ってくれた。
 最初に連れて行かれたのはエル・モロ要塞という所。この町 は1521年に建設されたのだというが、以来イギリス、ポルトガル、フランスに狙われ続けてきた。それらをうち払うために造られたのがこの要塞だ。要塞か ら街の中心地へと続く石畳がとても美しい。運転手のウイリアムが車を停めた。ここからは徒歩で案内してくれると言う。なだらかな坂に原色を配した土壁の建 物。オールドサンファンにいると、まるで南欧にやってきたような気分になった。
「あそこがマイヤーズの工場さ」
 僕は『パイナップルの生い茂る峠』という名を持つカクテル・ピナコラーダを屋台で買いゴクリと飲んだ。甘く爽やかな冷たさととラムの刺激が喉を降りていく。
 だが僕がここで思い出していたのは実は沖縄のことだった。街並みや人々はまるで違う。街はこちらの方が遙かに美しく、エキゾチズムを誘う。しかし『積み重なり堆積された時』のあり方のようなものが沖縄ととても似ていると僕は感じた。
  ウイリアムスの案内でラス・アメリカ博物館を訪れた。広い中庭のある巨大な建物だが、アメリカ全体のアートミュージアムだが、やはりラテンアメリカの生活 文物が多く飾られている。コロンブスがこの島にたどり着いた時、およそ三万人の先住民がいたのだという。ウイリアムは一見、まったくの白人だが、多分スペ イン人と先住民の混血であるらしい。
 先ほど、沖縄と何かが似ていると書いた。もちろん沖縄何かよりこちらの方がはるかに複雑な歴史を持っている。でもここはカリブの沖縄なのだと僕は思う。大国の間で戸惑い、諦めという意識の中で暮らす島……。


  カーニバルディスティニー 約10万トン

                オールド・サンファンのはずれからカリブ海を臨む


                           ウイリアム
              
 翌日の午後、僕は港に着き、これから乗り込むことになる『カーニバルデスティニー号』を見て唖然とする。それがあまりに巨大な船だったからだ。
 船に乗る前は、一体戦争が起きそうな時期に乗船する人間が何人いるのだろうか、もしかしたら航海は中止になるのではないかと思っていたのだが、出航が近づくにつれて、三階にあるメインロビーは人で一杯になって行く。潰れた船会社もあったというが、アメリカ全体でこの時期のクルーズシップの乗船率は92%だったそうだ。アメリカ本土でテレビを見ていると星条旗ばかりが映し出され、戦争ムードが高まっていたのにもかかわらず、これだ。アメリカ人の考え方はわからない。とはいうもののこんな時期にクルージングの取材にはるばる日本からやって来た僕も僕なのだが……。
 インフォメイションセンターで、「この旅は一週間だよね。その間に戦争が始まったら、どうなるんだい」と訊ねてみる。
 黒人の係員が面倒くさそうに答える。
「これは船の旅だ。世間のことなんて知ったことじゃないね。頭を切り換えた方がいいぜ」
 その通り……である。これから一週間、海の上、外で何があってもいたしかたないと覚悟を決めてパスポートを預ける。
 巨大な船内を迷いながら、与えられたカードキーで船室に入った。ベッドが2つ、ソファー、シャーワールーム。窓の外には海。悪くない部屋だ。
 巨大な船内、上質な部屋。上質なルームサービス。まったくの動くホテルである。
 午後8時から、最初のディナーが始まる。フォーマルなカクテルパーティーやディナーの日があるので、てっきりクルージング・ツアーなんてブルジョアのお遊びなのだと思っていたのだが、とんでもない。手づかみでチキンを食べる人がいたりで、まったくマナーなんてどこにいったものやらだ。
 もっともダイニングルームは幾つかあったし、等級によって客層も違うのかもしれないが、でも次の日からディナーを取った、上級のダイニングルームでも、マナーはあまり誉められたものではなかった。後で知ったのだが、やたらに大きな船は大衆船が多いと言うことだった。
 とにもかくにもとまどいばかり、生まれて初めてのクルーズ最初の夜だった(カリブの後、僕は沢山の船の旅を経験することになる)。
 穏やかな海の音を聞きながら僕は眠りについた。



 

Sunday, March 12, 2006

イスタンブール





 晴れ渡っていた。マルマラ海を越えて、イスタンブールが近づいてきた。向かって左がヨーロッパ、狭い海峡を挟んで右側がアジア。東洋と西洋が出会う場所。いつか訪れてみたいと思っていた場所だった。晴れ渡った空の下に見えるイスタンブールの街は何故か霞がかかったようだった。
 僕を乗せた船はガラタ橋近くの桟橋に着岸する。
  船を下り、ガラタ橋を渡るとそこには旧市街が広がっていた。旧市街側の埠頭からはアジア側への渡し船が発着している。釣り糸を垂れている人、なにとはなしに海峡を見つめている人、サバのサンドイッチを商う屋台、棒状の揚げ菓子・チュロスを売る行商人……。僕はチュロスを一つ貰って囓った。チュロスから滲み出る蜜の甘さが旅情をかき立てる。目の前には主に香辛料を扱っているエジプシャンバザールがあった。街のさんざめきが僕の心をときめかせる。



 祝祭の日のような賑わいを見せるバザールを抜けて、裏町へとさまよい出た。イスタンブールはかつてローマ帝国の首都コンスタンティノープルであった。歴史の迷路と街の迷路。踏みしめる石畳からは歴史が滲み出してくるようだった。ヨーロッパ人がこの街にオリエントへの憧れを抱いた気持ちが理解できた。
 街を迷いながら、いつか僕はオールドバザールへと辿り着く。そこはあまり巨大な市場だった。そしてため息が出るほどに怪しく美しい市場だった。



 イスに座り込み、ゆっくりと買い物の交渉をした。どこでもトルコチャイがサービスとして出された。二重構造の特殊なヤカンで茶葉を一旦蒸し煮して、入れるのだというチャイは香り高くうまかった。
「このヤカンが無いとトルコチャイは淹れられないんだ」
 男は誇らしげに言った。
 僕がその夜泊まったホテルは新市街にあった。新市街といっても数百年の歴史のある新市街だが。
 夜ホテルを出て、石畳の坂道を散策していると、どこからかトルコの歌謡が流れてきた。音色に誘われて小道に入ると弾き語りのバーがあった。僕はそのバーのイスに座り、ターキッシュ・ラク(茴香酒)を啜りながら、音楽を聴く。初めて訪れた街なのに心が郷愁で溢れてくる。



 小道に並ぶ露天の数々、魚市場の屋台。組めども尽ぬイスタンブールの街の楽しみ。
 翌日、僕はガラタ橋のたもとから船に乗り、アジア側の街、ウスクダラへと赴いた。コーランの詠唱が響き渡った。トルコは伝統的なイスラムからとうに離れてしまっているが、アジアサイドの方にはまだイスラムの色が少し濃く残っているようだった。そしてここにもやはり目眩がするような時の迷路が存在していた。
 一泊、もう一泊と僕はイスタンブールの滞在を延ばしていた。

Sunday, March 05, 2006

ルート66の食事

シカゴからセント・ルイスを過ぎるとステーキかハンバーガーしか喰うものはなくなると言って良い。
僕は肉が好きだから別に良いんだけれど、
肉が好きでないと本当にうんざりしてくるみたいだ。
ただしアメリカだからって本格的なハンバーガーがどの街に出もあるとは限らない。
ほとんどはは冷凍物だ。
でもステーキだけはどんな田舎町のレストランでも焼き加減をピッタリと決めてくる。
ブルー、レア、ミディアムレア、ミディアム……ドンピシャなのである。

ニューメキシコに入るとサウスウエストキュイジーヌの地域だ。
辛いものが苦手な人にはつらいけれど、これはホントに美味い。
それからちょっと66のルートから北にそれるけれど、
サンタフェあたりには日本食レストランが数軒ある。
でも最悪だ。あんな不味い米は食ったことがない。
カメラマンがどうしても日本食が食べたいと言うから、
日本食レストランに入ったのだが、
一口囓っただけで食べられなくなってしまった。
日本人はチャイニーズを食べたくなるが、これもよした方が良い。
アリゾナのフラグスタッフに、名前は忘れたけれど有名なチャイニーズレストランがあるけれど、
最悪だった。ヌードルを頼んだのだけれど、ヌチャヌチャだった。
文化大革命の後、最悪の状態だった中国でもあんなに不味いヌードルを食べたことは無い……。
少なくともカリフォルニアに入るまではステーキとハンバーグで我慢することである。

ルート66

 シカゴのダウンタウンにアダムスという名の通りがある。有名なシカゴアートインスティチュート(シカゴ美術館)のある場所から始まって、西へと走っている通りだが、そのアダムスを入り口からほんの10数歩入ったところに、一つの標識がさりげなく建てられている。標識にはヒストリックロード・ルート66と記されている。あまり気づく人もいない標識だ。
 ルート66……、別名オールド66。アメリカのマザーロード、またはアメリカのメインストリートと呼ばれる道。イリノイ州シカゴを出発し、ミズーリ州、カンザス州、オクラホマ州、ニューメキシコ州、テキサス州、アリゾナ州を走り抜け、カリフォルニア州サンタモニカビーチで終わる道。66の名は1926年に道路の設計者によって命名された。総距離数約2295マイル。
 ナット・キング・コールによって歌われた『ゲット・ユア・キックス・オン・ルート66』(ボビー・トラップ作詞作曲)の大ヒットで世界的にその名を知られることになる(この歌はテレビ番組『ルート66』の主題歌となった)。
 <西をへ旅するならハイウェイが最高さ>
 という歌詞の『ゲット・ユア・キックス・オン・ルート66』は、いわばモータリーゼーションの象徴でもあった。アメリカのモータリーゼーションの発達ととともにルート66の名前はアメリカ全土に親しまれていったのである。
 だが新しい高速道路が発達した現在、ルート66は分断され、あるいは新しい道路に吸収され、もはや昔日の姿を保ってはいない。アメリカのロードマップを広げてみるとわかるが、ほとんどの地図には66の文字が記されていない。モーターリーゼーションとともに発達したルート66は、皮肉なことにさらなるモータリーゼーションの発達とともにその生命を終えたのである。
 ヒストリックロードとはいうものの、シカゴからロスまで走る高速道路にまるですがりつくかのようにして、かろうじて存在を保っているだけだ。
 だがそれでもアメリカ人たちは愛情を込めて呼ぶ、……オールドルート66と。

 私を乗せた車は一路西を目指した。そう私はルート66を辿っているのだ(ともに旅するのは写真家の小平尚典とレーサーの木内兼一郎である)。
 ルート66をシカゴ郊外に行くに従って、風景は荒れたものとなっていった。私は忘れ去られ、置き去りにされた地域を走っているようだった。
 シカゴは、開拓民たちがいわゆる西部へと進むための前進基地だった。66と名付けられたのは1927年だが、もちろんそれ以前から西へ向かうルートとして『道』自体は存在していたはずである。
 ミシガン湖畔に建設された都市シカゴは、湖畔を渡る風が激しく吹き抜ける街だ。冬には零下三十度まで気温が下がることも珍しくない。そのシカゴから開拓民たちは、太陽を求めるように幌馬車で西へと向かっていったのだ。
 私もまた彼らと同じように、シカゴから西を、明るい陽光の差すロサンゼルスを目指してみようと思った。
 今日の予定はセントルイスまで。300マイル、480キロだ。セントルイスからミズーリ州となり、そしていわゆる西部が始まる。
(いわゆるというのは区分が時代や、分け方によって異なるからだ。現代ではイリノイ、ミズーリ、オクラホマ、中西部に属する)
 幾つかの街を過ぎ、オールド66は高速道路55線に合流した。両側には畑の風景が一面に広がっている。イリノイ州はどこにいってもそうなのだが、目に入るのはトウモロコシと大豆と小麦の畑ばかりだ。これからロスに着くまで、特別な所に行かない限り、さして風景は変わることはないのだ……。
 事実、イリノイ州、ミズーリ州、オクラホマ州と風景はほとんど変わることはなかった。多少森林が見えようと、畑の作物が変わろうが、数百マイルも走っていると同じようなものにしか見えない。広がるのは大平原ばかり。変わったことと言えば、最初の宿泊地であり、イリノイ州最後の街・リッチフィールドで宿泊した朝に大雪に降られたことくらいだ(私がルート66旅をしているのは春のことである)。
 リッチフィールドにあるアリストンカフェの主人デニス爺さんは私をにこやかに迎えてくれた。この店はルート66ができる数年前、1924年創業だ。
「あんたは日本人だね。これからどこへ行くんだい」
「ルート66をLAまで行こうと思うんです」
「そいつは凄いじゃないか、一体今日で何泊目だね」
「ここが最初の宿泊地です」
「シカゴからここまで走ったのかい!! 無理をするんじゃない。まあこれから気を付けていきなよ」
 アリストンカフェは観光名所だから、親切にしてくれるということはあるのだろうがそれでも旅人には温かい言葉はやはりうれしい。出逢いを期待して私はひたすら進む。
 自然は変わらなくても人の姿は変わっていった。まず典型的なのは服装である。ミシシッピー河を越え西部に入ると、テンガロンハットにブルージーンズ、そしてブーツという画に描いたような西部の出で立ちの連中が目立って増えてくることだ。道路沿いにもジェシー・ジェイムズ(西部の義賊)やビリー・ザ・キッド(ご存知だろう。彼はニューメキシコ出身だ)といった西部の英雄の名前を記した看板が目立ち始めていた。
 服装と同じように、西に行くにしたがってヨーロッパの影響の濃いちょっときどった東海岸的な人間も少なくなっていく。昼食や夕食に立ち寄るロードサイドのダイナーやカフェはたいてい一家で助け合うファミリービジネスだ。教養はないかもしれないが、素朴で働き者の男達や女達の姿がそこにはあった。
 どれだけの日本人がオクラホマやその先のテキサスまでやってくるのかは知らない。不思議だったのは街はずれのモーテルを泊まり歩き、土地の人間しか入らないような小さな田舎町のカフェに入ろうとも、ほとんど奇異な目で見られることがなかったことだ……ただし食事はハンバーグやステーキが常食となるのだが(大都市以外ではそれがもっとも間違いない食事だ。よほどのことが無い限り肉のあしらいはさすがに美味い。間違ってもアジア料理は選ばないことである)。



 テキサスの終わり辺りから少しづつ風景が変わり始め、ニューメキシコに入ると窓の外の風景は一変する。土は赤く、テーブルのような山があちこちに見える。西部と聞いて日本人が想像する風景が左右に広がる。圧倒的な風景だ。
 私はここで一旦北へと進路を変え、サンタフェへと向かった。現在の66はもっと南を一直線に西へと進むが、ここで北へ向かうのは1937年までの古い66のコースだ。
 サンタフェは優雅なリゾート地である。スペイン風に赤土の色に壁を塗装たホテルや住宅が並んでいる。ニューメキシコがスペイン領だった名残だ。街中にはインディアン・ジュエリーを商うネイティブアメリカンの露天市も立っている。
 一泊一日のつかの間の休息をサンタフェで過ごし、再びルート66を南へ下り、また西へと向かった。 
 ニューメキコからアリゾナにかけてネイティブアメリカンの居住地区も多い。ルート66周辺はナバホ族とホピ族が住んでいる。ナバホ族の村を探して、私は街道沿いにある一軒のアンティークショップを訪ねた。
「ナバホの村はどこにあるのでしょう?」
「ナバホかい? 外へ出て見なよ。見渡す限りナバホの土地だ」
 店から外に出て風景を見直してみた。そこはすべてが居住区だった。後にわかったがルート66から見える風景は居住地区しかないというところもあるほどなのだ。
 ニューメキシコ州はその名の通り、カフェで取る食事もメキシコ風のものが多くなってきた。通りすがりに街の食堂に入ると、「よお!!」とネイティブアメリカンらしい男達が私に声を掛けてくる。
「ここの食事はとてもムーチョだ。腹一杯食べていってくれよな」
 と。
 そして私はニューメキシコから最後の通過州であるアリゾナに入り、今日も昨日と同じようにひたすら走り続けた。
 幾つかの街を過ぎ、荒野の中の小さな小さなハックベリーという街に入った時のことだ。一台のクラシックなコルベットを展示してあるカフェが目に入った。車を停めるてみると、カフェと土産物屋を兼ねている建物にはルート66ビジターセンターと書いてある。
 すぐに建物の主が姿を見せた。男の名前はジョンと言った。ここで妻のケリーと暮らしているらしかった。
「75年に高速道路が出来てから、ルート66は死んでしまったよ。僕はここに来る前はシアトルに住んで、クラシックカーのコレクターをしていたんだ。二年前にルート66で行われるクラシックのラリーでここに来た。そしてこの街が気に入ったんだよ。66を愛しているし、いろんな人たちと出会えるしね。ここで暮らしたいと言ったら妻もそうしたいと言ってくれた。だからこうしてここにいる」
 ジョンはそう語った。
 この道には様々人生がある。66の名前にすがって生きている者もいれば、66を守る者もいる。いや……、多分66はそれ自体が人生なのだ。



 旅の日々が6日を過ぎた頃のことだ。
「飽きたぁ!!」
 ドライバーの木内が叫んだ。当たり前の事だった。少々風景が変わろうが、もはや私たちの刺激になりはしない。壮大で美しい風景もあった。古き良きアメリカを思い起こさせる小さな魅力的な街にも幾つか出会った。しかし今は過ぎゆく街を似た風景にしか感じない。食事はハンバーガーとステーキに、メキシカンが加っただけだ。夕べの宿も、さっき食べた食事も吹き抜ける風のように記憶から去っていく。心の中にあるのは今のことと、次ぎの宿と食事のことだけだ。そしてまるで行のようにひたすらルート66を走り続けた。
 コロラド河を越えるとカリフォルニアだ。もう到達点は近い。オールド66はカリフォルニアの砂漠を抜けていく。
 旅の終わりが近づくといつの間にか私も、この走り飽いた道のことを『オールド66』と思いを込めて呼ぶようになっていた。
 途中の小さな街、ニューベリースプリングには映画の舞台となったバグダッドカフェがあった。映画『バグダッドカフェ』は、どこにも行き場のない女と男が砂漠の中のカフェに愛に満ちた居所を見つけだす物語だった。
 オールド66はヨーロッパからの移民たちが辿った道である。彼らは東海岸から中西部のシカゴを拠点にオールド66を辿ってと、ワイルドウエストを過ぎ、西海岸で新しいアメリカの文化を生んだ。その歴史は古ぼけながらもまだオールド66に息づいていた。きっと捨て去った過去を痛みを込めて思い出し、自らの姿を再び取り戻すために、アメリカ人たちはオールド66を辿るのだろう。
 私がたどりついLAのサンタモニカフルバードには新しいパーソナルコンピュータの文化が息づく街があった。西海岸を中心に築き上げられたパーソナルコンピュータとネットワークは、アメリカが創り出した新しい時代の文化である。
 しかし道の途上にはまだ古ぼけたブルージーンズの下に、がっしりとしたブーツを履き、帽子を被ってよく働く男達と女達がいた。馬をワゴン車で引っ張り、旅をするロデオマンがいた。インディアンジュエリーやアートを商うネイティブアメリカンの姿があった。この道を愛し、見つめ続ける人たちがいた。住み着いて二人で古いコルベットを守って暮らす夫婦がいた。
 それこそが海の向こうの日本で私たちが憧れたアメリカの姿だった。
 いかに時は過ぎようがが、様々な姿が変わらずにこの広い大陸、そして愛すべき国アメリカには並列に共存している。その懐の広さこそがアメリカなのだと私は思う。
 残されたオールド66を味わうように車窓から見つめた。サンタモニカブルバードの向こうにある海岸には眩しく美しい夕日が私を待っている……。到着はアメリカの太平洋時間で午後6時。迷いながら、あるいは行きつ戻りつしながら走り、トリップメーターは走行距離2638マイルを指していた。キロにして4221。シカゴを出て十日後のことだった。海の向こうは日本である。私はもうオールド66を去らねばならないのだ。
 夕日の中で、そのことを私は寂しく思っていた。

Saturday, March 04, 2006

虫が好き?

 中学生から高校生の頃にかけて愛読していた著者に西丸震哉という人がいる。
 確か西丸さんの肩書きは食生態学者となっていたと思う。
 この人の著書は少年の日の僕の心をわしづかみにしたのだが、その中でも印象に残ったのが、信州の猟師小屋でご馳走になったカミキリムシの幼虫の話だった。たき火で炙って食べたり、刺身にして醤油で食べたりするのだという。そしてトロリとして甘く美味しいと記されていた。ついでに信州の蜂の子やザザムシなどの昆虫食のことも書かれていた。
 その話を読んで、いつか食べてみたいと思ったのだから、僕もそうとうに変わった少年だったのである。
 
 僕が生まれ育った高知にはとりあえず昆虫食の伝統は無い……(と思う)。
 で大学に入学し、東京に出てきた僕はスキーに行く同級生に頼んで蜂の子の缶詰を買ってきて貰った。
 まったく抵抗なく食べられたし、実際美味いと思った。
 その後、山梨の農家の人と親しくなり、蜂の子とりにも行くことにもなった。
 ただ残念ながら、カミキリムシの幼虫には出会わなかった。
 
 韓国に行ったときは露天で売っている蚕のさなぎをむさぼり食った。
 これも香ばしくて美味いと思った。
 中国山東料理にあるサソリの唐揚げも食ったが、不味くはないが特筆すべきものではなかった。
 アト喰ったのは蟻だ。これは昨年末の忘年会で出して貰った、山芋のアメ炊きに蟻をまぶした料理だ。これはなかなか美味かった。
 ゲテモノとあなたは言うかもしれないが、その民族が普通に喰っているものなのである。決してケデではないのだ。
 よくタレントが海外で変わった食に出会って、喰えないとかゲェとか言っているのを見ると、怒髪天を突くほどに腹が立つのである。はいうものの、は虫類だけは苦手だ。あの青生臭い味が苦手なのだ。ということは食べたことがあるということではあるのだが……。

 一昨年、15年ぶりにサハラ砂漠を訪れた。一昨年はイナゴが大量発生した年なのだが、サハラ砂漠を南に向かって幼虫が這って行く姿は恐ろしいものがあった。幼虫はサハラで成虫となり、北の穀倉地帯を襲うのだと言うことだった。
 誰かアフリカの人々にイナゴの佃煮の作り方を教えに行かないものだろうか。

 さて僕はと言えば、カミキリ虫の幼虫をいつか食べてみたいものだと、今でも思っているのだけれど……。
 

ピーナッツバター

 アメリカ人が好きな食べ物の一つに、ピーナッツバターサンドウィッチというものがある。作り方だが、まず一つの食パンにピーナッツバターを塗る。そしてもう一つの食パンにイチゴか何かのジャムを塗り、ペタリと張り合わせれば、ピーナッツバターサンドウィッチの出来上がりだ。
 ピナッツバターサンドウィッチの話を聞いた時、僕は、<なんだか、駄菓子屋かコンビニあたりで得意げに売ってそうな代物じゃないか……、ガキが好みそうな代物だぜ>と思った。アメリカ人の舌なんて、ガキ並だなとも思った。まあ大体はあっているけどね。
 そもそも僕はピーナッツバターが好きじゃなかった。ピーナッツ自体は嫌いじゃない。でも市販されているピーナッツバターときたら、口の中でヌルヌルする甘いだけの妙な代物でしかないと思っていた。
 ところがそれが一変する時がやって来た。
 シカゴに住んで間もない、よく晴れたある日のことだった。僕はアパートを出て、コープへ向かった。もちろんビールを買うためだ。アメリカのコープは午後十時くらいまで開いていて、お酒も売っているのだ。そもそもコープ通い自体、嫌いじゃない。料理が好きだし、食材が揃っていて、日本では見たことがない調理道具が揃っているコープは僕にとって天国みたいなもんである。でもアメリカのコープはあんまり面白くないなと、その時はまだ思っていた。臭い魚、冷凍肉や加工された食品たち、美味くもなさそうな缶詰、極彩色の食材の数々、チープな料理道具……、最低だなと思っていた。
 とにかく54丁目のハイドパークでローリングロックというチープなビールを買い、生のチョリソソーセージを買い込む。生のチョリソをこんがりと焼いて、ビールで流し込むのは最高なのだ。
 でレジへ向かったわけだが、途中にあるシリアルやらナッツやらの販売コーナーに妙なものがあることに気づいた。う~ん、まあミキサーとコーヒーミルの合いの子みたいなヤツだ。
 じっくり見ると、どうもピーナッツを入れてすりつぶすマシンらしい。こういうのを見つけるとすぐに試してみるタチなんで、当然試してみた。ルイジアナ産の小振りなピーナッツを入れて、下に透明のプラスチック容器を置く。でスイッチを入れると……、ウニウニと下からなんちゅうか尾籠な話だが、人間のおしりから出てくるようなものが出てきたわけである。
 ウチへ帰って一嘗めすると……、これがまあピーナッツの香り高く香ばしい代物なんである。もう病み付きになりましたね。日本へ帰国するときは前の日の夜か出発前にコープへ出かけて購入し、お土産にしたもんである。これが実に評判が良かった。まあなにしろフレッシュのピーナッツバターである評判が悪かろうはずもない。
 アメリカの喰い物が不味いというのは、まあほとんどホントの話である(最近はそれほどでもないけどね)。でもちょっとしたものが実に美味かったりするのだ。
 アメリカも案外捨てたモンじゃないんである。

Friday, March 03, 2006

サハラの空の下で

昔書いた、パリ・ダカールラリーの一コマ。
そのまんまアップします。

 僕はテントを張り終えると、寝袋を広げふてくされて寝転がった。
 91年の冬のことだった。
 アフリカの空を見上げながら心の中で、「おいおい」と呟く。なにしろ取材対象のチームがアフリカに上陸した翌日そうそう、リタイアしてしまったのだから、僕がそう呟くのも無理はないことだった。
 場所はニジェールの首都アガデスの市立公園。市内で唯一、テントがはれる場所である。昨日は他のチームの宿舎にお世話になったのだが、トイレのひどさがほとほと嫌になり、公園へと逃げ出したのだ。旧フランス式のトイレと呼ぶらしいのだが、ホントにひどいしろものだった。シャワールームとトイレが一緒なのはよいが、用を済ませチェーンを引いて水を流すと、壁の一番下にある吹き出し口から水が地面と水平に、後ろにあるシャワーの方に向かって吹き出すのである。通常、我々が考える水洗トイレはレバーを操作すると下に向かって水が適当な速度で流れ出し、体から出た物体はその水の流れと重力に従って、下にある管の中へと流れ込むわけだ。だがこのトイレは水平に水が噴き出すのである。しかもジェット水流のような勢いだ。当然、壁から吹き出す津波によって、体内から出た物体はシャワーの方に向かって押し流されることになるわけである。それだけじゃない、他人が残した物体までが逆流し始めるのだ。食べる物が違うからだろうが、様々な物体の匂いが混じり合って、とんでもないことになる。
 二回目で僕はノイローゼになりそうになった。これならよっぽど野糞の方がましだと思った。そして荷物を抱えて市内で唯一野宿がゆるされる市立公園へと逃げ出したというわけだ。
 便所の話は良い……。
 アガデスは、サハラ砂漠を東西と南北に走る2本の交易路がクロスする場所として、昔から栄えていた街である。この街でパリ・ダカール・ラリーの一行はラリー中唯一の休息をとるのことになるのだ。
 キャンプ場で数日を過ごすうちに親しくなったのがトアレグ族の人達だった。チーム静岡の監督小松勇次が、腹痛を起こしていた一人のトアレグ族に、正露丸を渡したのがきっかけだった。小松は静岡トヨタの宣伝部員だが(現在はフリーでプランナー・イベンターをやっている)、パリ・ダカに憧れ自らチームを率いてやって来たのだが彼のチームも早々にリタイヤした。リタイヤした車は陸路をパリに向かったが、彼は飛行機でパリに帰るわけにもいかず、その後もラリー隊と行動をともにしていたのである。
 この時小松が渡した正露丸がよほど効いたらしく、彼らは我々のテントの当たりに集まるようになったのだ。彼らにターバンの巻き方を習い、トアレグの話を聞く。もともとトアレグは遊牧民族だが、政府の定住政策で遊牧を放棄した連中もいる。僕たちが親しくなったトアレグもそんな連中だった。彼らは私たちのテントの回りに座り込み甘いミントティーを飲みながら一日を過ごすのだ。私たちもお茶を御馳走になる。お茶を交わすのは友情の印らしい。中でもオマルと言う男と私たちは特に親しくなった。彼の家に招かれ、ディスコにも一緒にいった。ディスコといっても運動場のダンス会のようなものだが……。別れの日、オマルは自分の車で私たちを空港に送ってくれた。
 オマルが言う。
「帰ったら手紙をくれるかい?」
 小松が答える。
「もちろんさ」
「オマルは信じてるよ」
 オマルが銀の鎖を小松に渡して言った。
「俺はなにもあげる物がなにも無い。これはずっと自分が付けていたものだけど、受け取ってくれ」
 そして私たちの飛行機は次の目的地へと飛び立った。
 アガデスを出てから2日後だったと思うが、マリ共和国のトンブクトゥーという街でのことである。普段、あまりラリーの基地から出ない。だが、この街は黄金伝説のあるほどに古い都だった。興味を引かれた私はタクシーをチャーターして街へ向かってみた。
 いけどもいけども砂まじりの荒れ地である。
ふいに土造りの建物が密集する街が現れた。荒野の中の土の廃墟の街それがトンブクトゥーだった。あまりにも荒涼とした風景だった。
 タクシーを一番大きなホテルの前で止め、これから行く方向を決めかねていると、赤い帽子を被った小学5年生くらいの少年が話しかけてきた。
「僕はアスー、日本語でアスって明日って意味だろ。ねえ僕にガイドを頼まないかい」
 前にガイドをした日本人からの紹介状をもっていた。紹介状には『おしゃべりで生意気な少年ですがいい子です』と書いてある。
「僕はとってもクレバーだぜ」
 確かに生意気だった。だが私はアスーにガイドを頼むことにした。ガイドといってもただ道を教えてくれるだけのようなものだが、アスーとの会話はなかなか楽しい。
 歩いている私に道端の女が声を掛けてくる。
「何て言ってるんだい?」
「愛してるってさ……。みんな日本人と結婚したがってるんだよ……」
 アスーの黒い顔が少し赤くなったように見えた。生意気だが愛すべき奴なのだ。
「ここいらの人は僕たちの顔を見ると、みんな一斉にカドーと言うけれど、あれをどう思う?」
 カドーとはフランス語で贈り物の意味だ。それが転じて物乞いのの言葉になっている。パリ・ダカの行程で私たちは原住民のカドーに悩まされていた。
 アスーが肩をすくめて言う。
「みんな嫌だって言うね」
「で、アスー君はどう思うんだい」
「うーん。アメリカ人がやたらに物をくれるからね。それに僕たちの国はまだいろいろと問題が多いんだよ」
 確かに小学生にしては、クレバーな答えである。
 翌日の朝私がテントから顔を出すとキャンプ地の中に赤い帽子が見えた。アスーだった。
名前を呼ぶと手を上げて答える。キャンプ地に捨てられた不要な物からまだ使える物を拾いに来たのだと言う。
「小さい弟たちに使えるものは無いかと思ってね」
 私はラリーで配られるランチ用のパックを2人前もらいアスーに渡す。
 私がテントをたたみ取材陣移動用の飛行機に向かおうとすると、アスーが重いダッフルをかついで飛行機のそばまで運んでくれた。この土地では荷物に少しでも手を触れられるとチップを渡さねばならない。
 私はちょっと躊躇ったが、ポケットの中から一番きれいな10フラン硬貨を選び、黙ってアスーに渡した。アフリカではフランの紙幣
は通用するのだが、何故か硬貨は通用しない。
 アスーは全くの好意で私の荷物を運んでくれた、私はそう感じていた。だから私は10フラン硬貨をお金ではない何かとして彼に渡したかったのだ。
アスーはうなずいてニコリと微笑んだ。

Thursday, March 02, 2006

少年の日のアイスクリーム

僕が生まれ育った高知市に昔、オリンピックという名のパーラーがあった。
僕の街からは少し遠かったけれど、夏の暑い日、僕たちは自転車に乗ってアイスクリームを買いに行った。 高知ではアイスクリンという原始的なアイスクリームが全国的に有名だけど、オリンピックのアイスクリームはアイスクリンとは全然味が違っていた。初老のおじさんが一人で営んでいる店だが、おじさんはいつも楽しそうにアイスクリームをコーンに載っけてくれたものだった。
太陽の光で溶け始めたアイスクリームをなめなめ自転車を走らせて自分の街に帰るのだ。
なにしろ味のことだから何がどうとは言えないが、独特で濃厚なその味に僕たちは参っていた……。

吉祥寺の中道通りにF&Fと言う名のステーキハウスがある。
ある日、僕は一人この店のカウンターに座っていた。
ステーキはそこそこうまかったのだけれど、デザートのバニラアイスクリームに目を見張った。
あのオリンピックのアイスクリームの味がしたのだ。
「このアイスクリームは自家製?」
僕はウエイターに尋ねた。
ウエイターは答える。
「いえ、どこかのメーカーのものだと思いますけど……」

食事を終え、料金を支払いながら、僕は再び訊ねてみた。
すると奥から主人が姿を現した。
「いえ、昔僕が好きだったアイスクリームに味がとても似ていたものだから……」
「わかります」
主人は微笑んだ。
「今のアイスクリームは牛乳が多いんですね。ですから濃いようでいて実はサラッとしているんです。昔のアイスクリームは卵が多くて濃厚だったんです。おっしゃるのはそのアイスクリームのことだと思います」
主人が吉祥寺で店を開く前にやっていた店の近くにナポリアイスクリームがあった。
ナポリアイスクリームの社長と懇意だった主人は特別なアイスクリームを作ってもらったのだという。
「人気があって今では定番商品になっているんですが、残念ながらお店用で市販はしていないようですね」

時々僕は少年の日のアイスクリームを味わうため、F&Fに行く……。